20041206
いま「創作」と呼ばれるような活動のなかで、文章を書くことは、たぶんいちばん手軽だ。なんの技術もいらない。ただし、それが「作品」として完成しているために要求される技術のレベルは、おそらくかなり厳しいものだと思う。書く人は、文章というものを「表現したいこと」をもっとも端的に表現するためのツールと見なさなければならない。そうでない状態で書かれたものは、作品としての価値をもっていないとすら思う(実際はそうでない場合もありうるということを百も承知で)。
そして俺は、その意味において「作品」を書いたことが一度もない。俺の文章は、いついかなる場合でも、勝手に自分の内部から湧いてくる言葉でしかない。親指シフトキーボードというツールを手に入れた時点で、俺にとっての文章は「ひとりごと」とほぼ同義のものとなった。
ひとりごとと違う点があるとすれば、それは書いたものは「かたち」になって残るということだ。どんなものでも、書かれれば、その出来の如何にかかわらず、それは残る。俺はたぶん、書いたその「もの」がかたちになって定着していく様そのものが好きなんだと思う。いまとなっては、まゆみさんという充分な話相手がいるにもかかわらず、それでも文章を書き続けるのは、たぶんそのためだ。そしてそれを見届けた時点で、俺にとって「書く」という作業は終了する。それは「書かれて」「かたちになった」のだ。そして俺は満足する。満足した以上、書かれたあとの「もの」たちは、存在していてもいなくても、どちらでもかまわない。なにしろ俺は書き続けるのだ。書いて定着する作業は繰り返されるし、その過程を愛するのであれば、過去に書いたものは、あってもなくてもどうでもいいことに、必然的になってしまう。
頭のなかに、言葉なのかイメージなのか、未分化な「モノ」がある。それは混沌としたエネルギーみたいなものだ。言葉によって輪郭は与えられるが、それだけではまだ、秩序はない。互いに無関係な断片として浮かんでいたり、あるときには奔流となって勝手に頭のなかをぐるぐる回っている。
その未整理な状態の断片たちが、キーボードを通じてテキストエディタに叩きつけられたときには、とにもかくにも「かたち」になっている。
頭のなかに渦巻くものたちは、俺が生きている限り、なくなることはありえない。生きているだけで、俺はいろんなものを見たり聞いたりしなければならないからだ。そうである以上、たぶん俺は文章を書き続ける以外にない。それがどんな内容であれ、だれにとっても読むに値しないものであれ、俺はたぶん書くしかないんだろう。趣味であるとか暇つぶしであるとか以前に、俺にはたぶん「書かない状態」というのが許されていないのだと思う。俺という人格を維持し続けるための装置のひとつとして「文章を書くこと」が入っている。
一種の業みたいなものだとも思う。けれど、俺は「書く」ことに対して、快不快の感情をもたない。それはただ前提として行われるだけのものだ。
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