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20041224


 クリスマスイブでございます。俺の勤めてるコンビニでは、フライドチキン祭りということで、はたして上限何本まで売れるか挑戦してみた。0時前に帰ってきたので、結果はまだわからないんだけど、23時段階で144本。まあ一日で売った数としては上出来といえよう。事前の予測が100本くらい、念のため余裕をみて在庫は200本ばかり持っていた、ってことは、最大でも200本は絶対に売らないだろうと考えていたわけで、まあ、大成功の数字といえましょう。あとは神奈川県でどれくらい上位に食い込めるかですが、これについてはまだ不明。神奈川県で一番とってみたいものでございます。


 ニートっていう言葉がどのへんのどんな感じの人たちを指しているのかはだいたいわかった。引きこもり(ライトなやつも含めて)とほぼ同義と考えていいんだろう。精神的な引きこもりも含む。
 早い話が、ある人格構造の一種だと俺は理解した。仕事してても精神的にはニートの人たちと変わらないってことはありうる。てゆうか現にある。俺がそうだった。そして俺が知ってる人間のなかにも数人いる。これに関してはぽいんつさんがえらい怒ってらっしゃるのだが、まあこれはこれでわからないではない。自分が義務を果たしているときに、果たしていない人間を糾弾する権利はある。少なくともこの日本で生きている以上、日本人が守ると決めた法律は遵守し、憲法とかも遵守する「べき」ではあるんだろう。まあ、それはそれで正しい。
 俺は基本的に「たまたま」日本人に生まれてしまったと思っている。そこに選択の余地はなかった。であるから、日本人になるもならないも俺の自由だと思う。自分で選択できないことに責任は発生しない。未成年は、親の庇護下にある。庇護下にあるということは、自分に選択の自由がないということだ。それゆえに、未成年に対しては責任が問えない(個人的なことならともかく)。
 俺は、ある日、自分の前にいきなり放り出された選挙権ってものについて考えた。まあ、最初の数年は単に面倒だから投票なんかしなかったんだけど、あらためて考えた。投票するってことは、この国の動きを自分で決めてるっことだ。実際それで政治が動くかどうかは知らんけど、原理的にはそういうことだ。しかしだ。現実の政治なんて、どう考えても不合理にできてる。規模が大きくなればそりゃー大変なのかもしれないけど、どう考えたってまともに「国を動かす」ってことをしてそうな人間なんてだれもいない。いちおー政見放送なんかも見るんだけど、泡沫候補のすさまじいご面相を見物する以外の楽しみかたを見出せない。なにより政治家っていう人たちが「本当に国を治めたい」と思ってるとはカケラも思えない。実際に政治家がどう思ってるかは知らないけど、投票は、自分に与えられた情報のなかで判断して行う以外に手はない。参考資料ときたら、頭の悪そうな新聞とか、おもしろければいいテレビ番組とか、そんなんばっかだ。かといって、日々の生活なんてものもあるし、自分の仕事や趣味だって大事だし「より正しく」投票するために勉強しようなんて気はカケラも起こらない。ここでいう「正しい」ってのは、自分の生活を総合的に快適にしてくれるくらいの意味だけど。
 結局「投票」ってかたちでは、自分の代弁者なんか選べそうにないと思った。だとしたら、自分自身がどうにかするしかない。政治家になる。評論家とやらになって多くの人たちにより「正しい」視点を与えること。現に政治やってる人をより正しい方向に導くための羅針盤となること。
 だけど、俺はその道を選ばなかった。なぜって、そんなめんどくさいことしたくなかったからだ。法律勉強するヒマがあったら、溜め込んだアニメを消化するほうが大事だったから。この世の行く末について頭を悩ますくらいなら、最近(つーても、もうかなり前になるわけですけど)の角川スニーカー文庫の新人の不作と将来への不安のほうがはるかに重要だったから。
 俺に限らないと思う。人は煎じ詰めれば自分がよければ他人なんかどうでもいい。そうでない奇跡的な場合は「愛」なんて大げさな言葉で語るべき人間関係だと思う。そうして自分と、自分の愛するごく少数のものを守るためだけに生きている人が大多数なのだと思う。俺はことさらにそのへんのことを露悪的に語りたがるけれど、たぶんだれでもそんなものだ。
 そういう利己的である意味愛すべき卑小な人々を外側からうまく囲ってやるのが国家なり政治なりってもんであって、俺にはそんな高邁な仕事はまずできそうになかった。
 だから、結局、捨てたのだ。選挙権を。それは同時に、自分がどんなにイヤでも徴兵されても文句は言えないことを意味する。たとえ意識としてこの国に参加していないつもりであっても、現実に俺は日本に住んでいる日本人だから、国が俺に負わせる義務を逃げることはできない。逃げたら犯罪者ですから。俺が法律を守る理由は、逮捕されたら困るからです。それだけ。だから「すべての犯罪はバレなければ犯罪ではない」と思う。だーいぶ前に、秋葉凪樹さんとこの掲示板で「もし、子供に、人を殺すのはなぜいけないことか、と問われたらどう答えるか」という質問があったんだけれど、それに対する俺の答えは「それは別に悪いことではない」だ。
 同じような流れで、俺は自分からは他人にまったく頼らないことに決めた。現実的には不可避的に関わってしまうし、頼る、頼られるを否定してしまえば、まともな社会生活はいっさい営めない。けれどそこには「金」という便利な媒介物がある。その便利なモノの威光が届く範囲でのみ他人と関わろうと決めた。そうでない場合だけを「友人」と呼びうる、と。他人を頼らないということは、信用しないということだ。また信用されないということでもある。必要であれば呼びかけるし、関わる。そうでなければ、呼びかけないし、関わらない。自分から呼びかけた以上は信用しないということはない。逆にいえば信用できると思ったからこそ、自分から関わっていく。だからこそ、俺にとって「他人」は道具でしかない。金を媒介にした人間のカタチをした「機能」だ。俺にとって「社会」とは「他人がたくさんいるところ」であり、その社会と俺との関わりは、煎じ詰めれば「金」だけだ。ものを買うのも消費するのも金。仕事のつながりだって「金」を生み出すためにやっているわけだから。別にそれがすべてだというつもりはないけれど、金を生み出さなければ、仕事ってのは無意味なものになる。自己実現とかそんなことはどうでもいい。金を生み出せればその人は優秀で、そうでなければ無能だ。
 こう考える俺は、けっこう自由に動くことができる。俺には「しがらみ」と呼ばれる類のものはいっさいない。それを捨てるべく生きてきたから。また、あったとしてもいつでもそれを捨てる覚悟はある。しがらみの最たるものは肉親だけれど、それはすでに捨てた後だし。かつては「育ててもらった恩」というのを感じていたこともあったけれど、よく考えれば「子供を作る」というのが自分の責任において選択可能なことである以上、作ったら育てる義務はあるのだ。少なくとも子供が社会に出て自分で稼げるようになるまでは。
 「しがらみ」は、ときに人情とかそういうものとセットになってることもある。思いやりとか親切とか、そんなものも一緒に連れてくる。俺はそれらも否定した。まあ、自由の代償は往々にして孤独ですが、それも、まゆみさんがいるいまとなっては、別にどうでもよい。自分たちが幸福に暮らすことが最重要だから、その限りにおいて日本社会が荒廃するのは困るけれど、かといって俺らが死んだあとまで日本が平和である必要はない。死んだらあとはどうでもいい。そう考える以上は、子供を作る権利もない。自分たちの自由を最大限保証するためにこそ子供を作らないとも言える。

 さて、こんな俺にとってニートという人たちがどう見えるかといえば、つまりどうでもよかったりする。ニートという属性は俺にとっては「意味がない」からだ。だって、日本の社会がどうなろうとかまわないんだもの。
 むしろ気になるのは、ニートという人たちが往々にして持つ「自分は落伍者」とか「非常な心労を負っている」とかそんな感じの無力感みたいなもんだわな。あと自分を正当化するための言い訳な。あれは困る。てゆうかこっちが本題のはずだったんですが、なんだかどうでもよくなってきた…。
 まあ、そのへんの人たちはだいたいにおいて「挫折経験」とか「人間関係がうまく保てず」なんてことを言うわけだが、確かにまあ、ぽいんつさんが言うように、だれでもその程度の経験なんかしてるわけだ。人間としてのスタート地点において、たとえばアトピーだったり、親からの虐待があったりとか、大きくマイナス地点に立ってることはありうるし、まあそこから「人並み」に辿りつくまでがけっこうしんどいってことは、まあわかる。わかるんだけど、それもまた自分の一部だからねえ(余談だけど、俺が「性同一性障害」ってものがどうしても理解できないのも、このへんが理由だ。いくら心は男じゃない、女じゃないっつったって、肉体の性別に従うしかないじゃんっていう。だいたい性別による言葉づかい、心のありかた、そんなものだれが決めた? 社会に受け入れられるられないの問題じゃない。まず「自分」であるべきじゃん。受け入れられない社会であっても、受け入れさせるしかないんだよ。そうじゃなきゃ「諦める」。これは二者択一だろう)。
 かくいう俺も、ここまで覚悟固まるまで30年はかかってるわけだし、それもまゆみさんの助けを借りて、ようやくなんとか、ってところだ。
 ニートと呼ばれる人たちに関しても、時期が来れば、まあ、なんとか社会に出る気になる人もいるでしょう。死ぬまで生きようと思えば、否応なしに働くしかないってことに気づく可能性もありますし。そうでなければ、いずれは親も死ぬし、そうなったときに野垂れ死ぬ覚悟があるか、ですね。野垂れ死にする覚悟があるのなら、それもまたひとつの選択肢でしょうし。

 いま引きこもりやってたり、精神的にどうにもならない状況にいる人たちには、自分が以前そこにいたことがある人間として、言ってみたいことがある。親は、自分より先に死にます。そして、そのときになって自分の生活を支えるだけの稼ぎを得ることは、かなり難しい。このへん、抜け道はないです。まあ、生活保護とか浮浪者とかいろいろ選択肢は残されてるとは思いますが。自尊心さえかなぐり捨てれば、生活保護(もらえるかどうかはともかく)は悪い選択肢じゃないかもしれない。が、この自尊心とか世間体とかそういうのがなかなか厄介で。人ひとりを追い詰めるには充分な圧力を持ってたりします。
 さらに重要なことは、人は結局、孤独で生きていくのはかなり難しいということです。おそらく、恐ろしいばかりの強さが要求されるでしょうし、その強さは本当の絶望に叩き込まれないとまず得られないかと思います。本当の絶望とは、孤独のなかで孤独であることではなくて、周囲からの完璧なまでの拒絶によってもたらされます。なにも見まいとして見えずにいることに絶望するよりも、実際に見てやはり拒絶されていることのほうが、おそらくは恐ろしい。自分の理解者が皆無であることは、想像しているよりも厳しいことです。…まあ、そこを踏まえたうえでなお、ひとりで生きていくことは不可能じゃないとも思いますけど。ただまー、よっぽど強靱な知性でも持ってないと、自分の人格の構造を歪めずにそこに辿りつくのは大変だろうなあ、とも思う。
 そして、時間というのは流れます。50歳にもなれば、肉体はかなりぼろぼろになるでしょう。そのときになって慌てても遅いです。
 いずれにせよ、最終的な解決策としては「だれにも迷惑をかけない方法での自殺」というものが残されています。なかなか実行するのは難しいですが。そしてなによりそれを実行するのは「顔見知りの一人もいない」という本当の孤独が訪れてからにしてください。つまり「その人が自殺したことにだれも気づかない」という状況です。他人と関わらない場合、本当の意味での「責任」ということにはなかなか気づきにくいものだとは思うのですけれど、自分が死んだことによって、だれかが悲しもうともかまわない、だれかが不快な思いをしようともまったくかまわない、というのは自分が生きてきた時間や、関わってきた人間に対する最大の裏切りだと思いますので。まあ、その裏切りの意味がわからないのが、つまり精神的に引きこもってるということだと思いますけど。
 もっとも俺自身がそういう意味では社会に対する裏切り者なので、強いことはなにも言えないですが。でもなあ、俺は日本がどうなろうとかまわないけれど、自分が好きになった人たちには幸福になってほしいと思うなあ。

 なんにせよ、人は自由です。本当に自由です。自由ってのは、たぶん社会との関わり合いのなかで、減ったり増えたりするものです。どのへんに自分を定位させるのかが難しいところですけど、最終的に定位しないことだけは、たぶん許されないんだと思います。だれが許さないのかは知らないけど。…おそらく、人間が完全に一人で生きることは絶対に不可能である、というその事実がそれを許してくれないんだとは思うけど。これが。不可能なんだ、ほんとに。残念なことに。



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