20050127


 日本語入力コンソーシアムというサイトを見た。
 あらー、親指シフトっていまは最速ってわけでもないのね。単純に最速だと信じてましたが。まあよく考えれば親指シフトキーなんてものがある時点で、高いレベルになればタイムロスは生じるわな。
 俺はこのキーボードの最大の利点は「一音につきタイプ1回」というところにあると思っている。おそらくローマ字入力に慣れている人にしてみれば、たとえば「ka」とタイピングする場合、それはほとんど1タイプと感じられているのだと思う。事実、俺はローマ字入力でもほぼブラインドができるんだけど、英文を入力しようとすると、とつぜん速度が落ちる。子音の後には母音が来る、というふうに頭のなかに決まりができているんだと思われる。
 親指シフトがこの世に広まって、自分がキーボードを買う際の選択が広がるのはよいことだなーと思うのだが、上記サイトの言っていることにはちょっと疑問に思うことも多い。親指シフトはあまり疲れないって話だけど、これはどうかな、と思う。親指を常に浮かせていなければならないので、手首も使ってタイピングすることになる。これってたぶん、ものすごい長時間になればどっちかってーと疲労度が上がる要因だと思うんだけど。あと、親指シフトキーと変換キーが一緒のキーになってる場合、まちがいなく日本語入力がやりにくい。これは実際に以前箭沢の持っていたノート型のワープロ専用機がそうで、実に誤変換が多かった。
 いまとなっては速度的にも大したことはなく、キーボードの選択肢も少ない。そんな親指シフトだけど、魅力はあると思うんだよなあ。ローマ字入力でもタイピングが好きな人は同じことなのかもしれないけれど、手を動かすことに喜びがある。実際に親指シフトほぼオンリーで15年くらい経過してしまった以上、いまさらそれがない状況ってのは想像しにくいんだけど、もし俺が親指シフターでなければ、ここまでタイピングという行為を愛せなかったかもしれない。過去の大量のテキスト群も(精神の構造として文章を書くことをしなければ平衡を保てなかったということはさておき)それがあったからこそ生み出されたのだと思う。


 「動物化するポストモダン」という本を読んだ。
 んーと、俺、この手の本ってどうしても意味がわからないことが多い。自分馬鹿なせいかと思ってたんだけど、必ずしもそれだけではないらしい。わかりにくいって点では一般的にこれより上だと思われる「これがニーチェだ」という本についてはさほどの苦労もなく意味を追える。
 で、この手の本のなにがわからなかったかというと「この世を一つのモデルで説明できる」という前提で成立してる点だ。自己とか自我とか、まあそんなようなものをテーマにしたものは、俺にとって比較的理解しやすい。なにせ自分のなかをよーく点検すれば、実感というものが持てるからだ。その実感が持てなくなった領域がその人にとっての哲学の限界だといえる。ないし疑問の持ちかたの形式がぜんぜん違うってことになる。これはわかりやすい。なにせわからないことはわからないんだから。
 ボストモダンとかそんな言葉が出てくると即座に理解がおぼつかなくなるのは、つまり俺はポストモダンとやらに会ったこともないし食ったこともないからだ。「戦争があって世のなか大変でした」というくらいなら俺にもわかる。そりゃ大変に決まってるからだ。「経済がずっと成長していたのでみんなイケイケでした」というのもわかる。そりゃそーだ。金ありゃみんな買いものするしな。生活が派手にもなる。
 ところが「オウム真理教はなんかの時代の終焉に出てきた」とか言われるととつぜんわからなくなる。あれはたまたま一人のちょっとおかしい人がいてそれにひっかかる人間がわりといてしまったので偶然生じてしまったものなのじゃないか、と思える。昔からそんな人間いただろって。そりゃまあ、それが一つの大きな社会現象にまでなってしまったのは、それなりの時代の背景があるんだろうと思う。けれどそんな時代背景なんて、難しいこと考えなくても説明できるじゃん、などと考えてしまうわけだ。共同体が崩壊して云々かんぬんって素人でも考えられることだろ、と。しかしまあ実際は俺が三面記事程度で把握してるその素人考えも、実際はどこかの頭のいい人がなんか考えてひねり出した「社会をとらえるうえでの枠組み」をわかりやすくしたものなのだろうとは思うけど。
 今回読んだ「動物化するポストモダン」は、アホでもわかるような書きかたをしてくれていた。したがってアホである俺にもわずかながら理解できたような気がする。どこかの頭のいい人がいろんな出来事とかを見て「ああ近代は終わったんだ」と思い、それを前提にしてなんか枠組みを作ったのだろう。そしてその枠組みから見れば世界はこんなふうに見える。そしてその世界においてさまざまな出来事とかはこんなふうに見える。その見方を採用すればいろんなことがすっきり説明できるという(少なくとも現代において)妥当性の高い「枠組み」なのだろう。
 ただ枠組みでは個人は掬えない。そのへんどうなのよ、と思ったら「そこでは人間性はどうなのか」みたいな感じでちゃんと答えもあった。ただ、そこはやっぱり理解できなかった。枠組みから攻めてったら個々人の心までは掬えないのは、まあしょうがないのかもしれない。そのへん、この本の踏み込みが浅いのか、それとも「そこまではやってられませんよ、しょせん新書なんだし」ということなのかはよくわからない。
 この本でもそうだし、岡田斗司夫の対談を見たときにも思ったし、宮台真司の本を読んだときにも思ったんだけれど「現状こんな感じですよー」というのはわかる。そして現状こんな感じである以上、現実的にとりうる戦略はこんなもんですよ、というのもやっぱりわかる。それはわかるんだけど「だったらおまえ自身はどうなのよ」という問いには答えてはくれない。彼ら自身の選択はまた別だということはわかる。けど、自分自身がそのなかを生きてない言論なんて信用できんのかよ、とも同時に思う。あるいは自分自身は生きてないからこそより客観的で信用できるのかもしれないけど、俺はそうした考えはもてない。
 さらに、これは俺自身がすでにおっさんだからなのかもしれないけど、彼らが提唱する「戦略」みたいなものが、どうしても人間を幸福にするものだとは思えない。大多数の人間は愚民であるという前提なら、確かにより「マシ」な方向に誘導してやるのがベストなんだろう。それは俺もそう思う。けど、そこになにか割り切れないものが残る。どうしても。どうせこの世は変えられない、その限定された世界で楽しく生きたいと思うなら、自分に責任もってプライド持って生きれや、ってのが俺の解答だ。もちろん「この世界」という枠組みそのものを疑うのであれば話は別だけれど、それはごく少数の、天才か変態かよほどの変わり者にだけ許されてる道だと思う。なにしろそのルートには終わりがない。たぶん。絶対にないし、あったらそれは枠組み疑ってることにはならないと思う。
 愚民を「よりマシ」な方向に導き、自分をその埒外に置くってのは、ある意味自分を特権者の立場に置くことだ。最初からそういうつもりでいる岡田斗司夫のような確信犯(そう見える)は別だけど、なんの権利があって特権者の地位に座ってるのか俺にはわからない。頭いいからだろうか。
 まあたぶん以下のようなことを思うのは、俺が学歴なくて仕事ばっかりしてたからだと思うんですけど(僻みとかでなく)、泥にまみれてない人の言うことは信じられない。ある種の哲学っぽいものには共感できるのは、きっとその人たちが、ふつうの人は疑問に思わないような根源的な疑問っていう泥沼のなかから這い上がってきているからだと思う。
 人はひとりでは人間になれない。けれど自分を作るのは自分だ。外部からの無限の情報が人間のなかに沈殿している。その沈殿から作り上げた泥の城が自分自身だと思う。人はその泥の城のなかに住む。



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