20050129
以前いた職場の送別会とやらがありまして、参加しました。まあ俺はそれほど慕われている店長ではなかったというか、むしろ積極的に慕われていなかったので、みんな俺をそっちのけにしててきとーに盛り上がってましたが。まあなあ。辞める間際はほとんどやる気なかったし、実際には店長やめてからもう数カ月経ってますので、直接に俺を送別する気持ちなんか別にない人が多かったと思います。
とはいえ、そうした参加者を眺めているうちに、感慨のようなものがぼんやりとですが感じられました。そーいやここにいまある人間関係って、俺がいないと存在しなかったんだよなー、というような。その人間関係が有効に機能しているということは、つまり俺の存在には意味がなかったわけではないのだな、とも思った。
もう一人の社員から「えむけーつーがいなくなったあと、この会社は大変だ」というようなことも言われました。ま、実際のところそのとーりだと自分でも思う。気がついてみりゃ、俺が会社という枠組みのなかで果たしていた役割というのはけっこう大きかったのだなと、これもあらためて思った。
会社なんていう抽象的なものに忠誠心なんて持てるはずもないけど、それでも俺は結果として会社のためにいろいろなことをしたことになる。実際、会社なんてゆっても個人の集合体で、俺はその個人個人のためには、まあなにかをしたんだと思う。自分は腹黒いとも思うし、人間を人間と思わない傲慢なものでもあるし、なにより誠実なんて言葉からはもっとも縁遠い場所に棲息している人間だけれど、それでも自分の存在が社会という場において無意味ではないということは、あんがい嬉しいことなのだと知った。
まあ別に「黒い人間」という自分のスタイルを崩す必要は別にないわけなんだけど、だからといって、嬉しいという気持ちまで否定することも別にないんだろう。
別に社会に参加することや、そこで自立した一人の人間としてふるまうことが正しいことだとも思わない。この世がすべてであるという前提を無条件に受け入れることはしない以上、この社会における「責任感」みたいなものが必須だとは思わない。別の尺度に生きるなら、それはそれでありだと思う。徒手空拳で、己が生きる「この場所」を確定する作業から初めて、やがて「世界」みたいなものと対峙するようなことは、この世的には愚かなんだろうけど、だからこそいっそう尊いことだとも思う。そこに意味があろうとなかろうと。まあ、肉体はこの世界で生きてる以上、他人に迷惑かけちゃいけないというのは最低限ですけど。
俺は結局「この世界」で生きることに決めたわけで、その世界のルールのなかで自分の場所を築くのも、まあ悪いことじゃないかなあと思えた。日和見とか保身とか、まあそんな言いかたもあるけれど、実際問題そーなのかもとか思わないでもないけど。
そんでもまー、俺は数ある選択肢のなかから自分でこれを選んだのだということ、そしてそれが唯一の方法でないということを知ってるのだということさえ自覚しとけば、とりあえずオッケーだと思う。
そしてなにより、そうした作業すらも「遊び」でしかないんだということは絶対に忘れたくない。生きること、死ぬこと、存在すること、存在のしかたを自分で定義すること、この世界のありかたに疑念を持つこと、時間の流れにすら疑問を持つこと、そうしたあらゆる「自分のありかた」のなかから俺は「これ」を選んだ。自由は無限大で、俺が選んだ「ルール」の外側にはまだ広大な場所がある。まあ、まゆみさんと生きてくことを選んだ時点で実はルートは限定されてくるんだけど、それはそれでオッケー。けれど自分は自由であることは忘れない。自分の立っているいま「この場所」の下には無限の自由が広がっていて、空にもまた無限の自由が広がっている。それは寄る辺なく、とても孤独なことだとは思うけれど、だからこそ自由だ。現実は俺に「たったひとつ」の選択を常に強いる。なんつーか、その状況だったら、ルールくらい決まっててもいいと思える。
ひとつしかできないが、なんでもできる。
それは、素晴らしいことなんじゃないだろうか。
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