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20050217


 テレビ見てます。
 しかしだ。このセレブとかマダムとかそんなふうに呼ばれる人たち、どうしこう揃いも揃って俗物っぽい顔してるんだろう。俗物じゃない金持ちってあんまり見たことないよ。どうしてだ。なんていうか、セレブっていうくらいなら、精神の貴族であるべく努力くらいしたらいいのに。…まあ、努力したところでどうにもならない部分ではあるのだろうけれど。
 「なんでセレブを国の宝みたいに扱うんだろう。あれって金余ってますがなにか、って言いたいだけだよねつまり」
 まゆみさんの言うとーりなんでしょう。
 そりゃ精神もさもしいよあ。


 あとリンク貼って積極的に話しかけるのも図々しいかなあと思うので、ネットの片隅でひっそりと提言。メールってのも考えたんだけど、それも余計なお世話っぽいしなあ。
 んでまあ、同じ避難所体質の人として、経験上思ったことなど。
 避難所であることに必要なのは、たぶん誠実さとかそういうものではないです。いちばん重要なのは無責任さ。人間が他人になにをしてやれるのか、と考えると、実は原理的にはなにもしてやれません。というか、その人が責任とるべきことであれば「なにもしてあげてはいけない」わけです。
 ただひとつできることは「聞いてあげること」だけ。避難所に持ち込まれるお話は、かなりの高確率でグチです。グチというのは、それを言う人が当人の責任を果たさないところに発生するものだから、原理的に聞いてあげる以外になにもできないのです。
 ここから先がその人の持つ誠実さの活躍する領域だといえましょう。
 いちばん誠実な人は「なにかしてあげたいけれど、できない。せめて聞くくらいは」という態度です。
 ふつうの人ならば「聞くことがなにかの役に立つなら聞いてあげるから、今後がんばれ」です。
 そして俺のような人間のクズ路線だと「グチは多くの場合相手の弱みだから、情報として握っておいて損はない」です。
 下に行くほど気分的には楽になり、良心は咎めます。


 最近、あまのさんとこ発で「絵と文章」みたいな話がよく出てるので、俺なりに考えてみた。てゆうか一般論はよくわからんので、ごく個人的な話で。
 正直俺はマンガ描きたくてたまらなくて艱難辛苦を重ねた末に「やっぱだめだこりゃ」と思った経緯がある人なので、絵を描くことができる人に対しては羨ましいという気分がかなり強い。同時に神じゃねえのかとも思う。俺があれだけ長いあいだかかっても人間の全身像ひとつ満足に描けなかったってのに、なぜこの人らはこんな簡単にできるかね、っていう。
 俺にとって「文章」という表現の形式は、ある意味逃げの結果でしかなかった。文章を書くこと自体は最初に親指シフトのワープロを手に入れたその日からやってたように思うけど、しかし俺の描きたかったものはマンガだったのだ。日々浴びるように読んでいたマンガの世界を自分で再現したかったのだ。しかも文章を書けるからといって、小説が書けたわけじゃない。ごく最近に至るまで(日記はいまでもそうだけど)、俺にとって文章を書くという行為は「なんだか知らんけど書くのは楽しいし、なんか出てくるのでとりあえず書いといた」というだけのもので、その限りにおいては「自己の表現」といえないことはないのだけれど、しょせん便所の落書き、吐瀉物の類で、ただ「それがだれかにとって意味を持ちうる可能性はある」という認識程度でしかなかった。
 文章書きに共通のある種のコンプレックスというのは、おそらく表現手段である「文章」と自我との距離が近すぎることにあると思う。文章を書くことは、基本的に馬鹿でもできる。文章を文章たらしめる最低ラインは文法がまちがっていないことだと思うんだけど、文法が獲得されてない人間はいない。それが言語を使うための最低条件だから。基本的に他人と話ができればそれは文法力があるということで、そのままタイプなりメモなりすれば、それはまぎれもない「文章」だ。だから馬鹿にでも書ける。書かれたものに意味があるかどうかはまた別の話。
 これは憶測でしかないんだけれど、世にSS書きといわれる人で「物語を表現するために自分にとって最適の手段」として「文章」というものを自覚的に選択した人ってけっこう少ないと思う。「絵が描けないからSS」とか、あるいは上述したような意味で「馬鹿でも書ける文章」からスタートした人が、自分の表現手段にプライドを持つことは難しい。一見あきらかに技術と努力の結果である「絵」に対するコンプレックスがあるのもむべなるかなって気がする。
 憶測に憶測を重ねると、絵というのはかなりの部分で「技術」がものを言う世界だと思う。そしてその「技術」はだれの目にも明らかなかたちで暴露されてしまう。いいったって悪いったって、ヘタな絵はだれが見たってヘタなんだから。描く人にしてみれば、「本当に描きたいもの」を描くためには自分の技術は足りないのだと、繰り返し何度でも思い知らされるだろう。おそらく絵というものはそれを描く人に成長を強要する性質のものだと思う。
 文章にはこの厳しさがない。自己満足に陥ることがきわめて容易だ。絵は、ただ描かれるだけで、それ自身「作品」であることを指向する。文章にはそういうのないから。人が「文章を書くこと」の厳しさに直面するのは、それが「なにかを表現するための道具」であることを思い知ったときだと思う。
 自己満足のもとに人が文章を書くとき、それはその人と文章との蜜月といえる。自覚的に「文章」を選択したのでなければ、この「蜜月」の記憶はだいたいの人にあるんじゃないかと思う。おそらく恥の意識とともに。
 一般論ぽく書いてしまいましたが、少なくとも俺はそんな感じです。
 あと、ごくあたりまえのことなんだけど、いまSS書きといわれる人たちって、活字メディアだけで育ったわけではない。てゆうかどっちかってーとマンガとかアニメとか、あとエロゲとかとにかく「絵」がないとどうにもならんメディアで物語を吸収してきたはず。だから「絵」があることが理想で、そうでない状態(文章だけの状態)は「欠落」だと感じるのだと思う。欠落を埋めてくれるから、絵描きはありがたい。そういうのあるんじゃないだろうか。
 なんか原理的にプライド持てそうにない気がする。
 俺は文章以外の表現形式をまったく使えない人だし、いまとなってはそのことに不満もなにも感じない。絵のほうが優れてるとも文章のほうが優れてるとも思わない。考えない。同時に「文章でしか表現できないことがある」とも思わない。俺が使いこなせる形式は文章だけで、それ以外の努力する気もない以上、そこに不満もっちゃいけないし、隣の芝生見ていーなーと思うことも許されてない。てゆうわけで、実は自分の書いた文章にプライドも持ってない。

 ただまあ、それとは別に思うんだけど、自分の描いたものに「絵」が与えられたときの衝撃ってのは忘れられない。これは特に俺がヴィジュアル的なイメージ力が極端に乏しい人だってのも関係してるんだろうけど、なにしろ自分のイメージのなかにしかいない、雲を掴むような「モノ」だった存在に、いきなり「かたち」が与えられるんだから。自分の妄想が全世界から肯定されるような衝撃だったといっていい。
 ああ、そうだったのか、これが俺のイメージしていたものだったのか、と納得するほうが先だった。
 …まあ、だから、らむださんすげえなあと思ったなあ。



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