20050425
福知山線の事故、とんでもないことになってますね。日記を書こうと思ったんだけれど、テレビの映像があまりにすさまじくて手が止まっています。他人事とはいえ、ここまで凄絶な映像だと、もう言葉もない。
てゆうか、解説者の人、すんごいテンションだぞ、テレ朝。早く止めてあげようよ、古館さん。
朝、ガス屋の到来で目覚める。洗濯機置き場の幅が狭すぎるせいで、乾燥機の設置は洗濯機が納入されたあとでないとできないとのこと。二度手間三度手間のガス屋さんご苦労さま。
そのあと俺はまた睡眠。まゆみさんはそのあいだに、自分の部屋の荷物のかたづけ。
目覚めてから、まゆみさんにマッサージなどしてもらう。ここんとこ連日の運転と荷物の運び込みでちょいと疲労が蓄積してるもよう。
そのあとサンバーたんの洗車。思わず薄い笑いが浮かぶくらい自然が豊かな場所であるのはいいのだが、その影響で鳥の糞がサンバーたんに大量投下されており、至急きれいにしてあげなければならない状況であったりしたので。
洗車に行く途中で、クリエイトという薬局に寄る。ホコリのせいでまゆみさんのくしゃみと鼻水がひどくなっていたので、パブロン鼻炎用カプセルを購入。
横浜に戻りがてら、幸楽苑というチェーン店のラーメン屋に寄る。俺は厚切りチャーシュー麺を。まゆみさんは中華ワンタン麺の大盛りを食べる。あと二人とも餃子一皿ずつ。最近ダイエット中ってことで胃が小さくなってるのか、二人とも食いきるのに非常な努力を要する結果に。あげく、食いすぎ。
んで、横浜の家に帰宅して福知山線の事件を知った。
そーいや帰宅途中、以前住んでいた家の前を通過してみた。
結婚して以来、3年間ばかり住んだ家だ。今後、暮らしは開店予定地が中心になるわけだし、なんとなく気軽に寄れるのはこれが最後かなと思って。
そこで暮らした3年間は幸福だったと思う。
確かに仕事はキツかったし、時間もあまりなかった。やりたくてもやれなかったことや、やりたくないのにやらなければいけないこともたくさんあった。けれど、いま、3年間を振り返って思い出すのは、たとえばまゆみさんと自転車で遠くに行ったこと。まゆみさんが仕事に手伝いに来て一緒に家に帰るときのこと。雪が降るのを楽しみにしながら冷たい雨のなかをガストに行ったこと。
そしてどこに出かけていったとしても、必ず帰るのはあの家だった。
「楽しかったね。やっぱ家っていいね」
そのときはあたりまえの日常に埋没していて、小さな楽しみのあとの帰宅でしかなかった。けれどそれが過ぎ去ったあと、記憶として残るときに、それらの光景ひとつひとつが幸福の色で彩られている。
すべてが過去になる。そのことに言い知れぬ悲しさのようなものを感じる。生きるということは、いま自分が経験している瞬間が次から次へと過去になっていくということだ。そのことを人間の力では変えられない。俺はあらゆることに納得しないことに決めている人間だけれど、このことだけは受け入れざるを得ない。
この「すべては過去になる」という事実が絶対であるからこそ、人の生は悲しい。この悲しさは、たぶん人が、自分の制は有限であるということを意識したときに始まる。そして、そのことを意識しなければ、その人の生は始まらない。永遠であることに意味はない。永遠と無は同じ意味だ。終わりがあるのであれば、その時間は50年でも1万年でも本質的には変わらない。解決のしようのない根源的なジレンマ。このジレンマの狭間で人は生きる。
その時間は、単なる死に至る道程か。
あるいはひとときの恩恵か。
存在するということそのものが、この「世界」そのものに対する抵抗であるかもしれない。
人の物語の終わりには必ず死しかない。この有限の時間に対して、いまのところ俺は、この世は夢だとも、一幕限りの狂言だとも思えない。かといって一個の作品だとは思いたくない。そこを生きるのは自分だから、そんなに突き放して考えなくてもいいんじゃないかと思えるから。当然のように自己実現でもない。
過去に幸福であったことはもう失われた。ただ記憶として自分のなかに残るだけだ。今日も幸福であればいいと思う。明日も幸福であればいい。幸福であることの意味を知ってしまえば、それを失うことは許されない。俺が知った幸福の種類は、一人では形成できないものだから。俺だけの問題ではない。
車で旧居から離れるときに思った。十年前の自分、ないしいまの俺とは違う時間を生きていた果てにいる現在の孤独な自分にかける言葉はないかと。
美しい夢は実現できましたか。それはこの世にありましたか。経験したことのない幸福な過去への憧憬の正体はわかりましたか。
たぶんそれは、その瞬間を生きている君の半秒先にあるもので、人はそれを永遠につかまえられず、にもかかわらず、半秒後には手に入れている性質のものです。君が群集を行きかう人びとや、夕暮れのビル街や、人気のない住宅街に見出していた幸福な空気も、たぶんいま現在俺が知っている幸福と同じ性質のもので、ただ、実際にそれを手に入れてみれば、その色彩はいっそうあたたかい色に包まれていて、いっそう悲しい色彩を濃くしているのです。
孤独という代償を支払って極彩色とセピア色の二色に塗りつぶされた世界は美しいでしょうか。俺はその世界を見てみたいと思うけれど、もう俺自身は見ることができません。そしてその自分に後悔もしていません。
まあ、なにはともあれ、後悔することだけは、人に許されていないんでしょう。人の生は選択の結果に発生するもので、選択するのは自分なんですから。
さあ、寝るか。明日もまた、幸福な過去になっていくふつうの日常が始まる。
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