20050509


 某コンビニチェーンのオーナー育成のための研修中です。基本的にいつも座って話を聞いているだけなので、ものすごく苦痛です。どれくらい苦痛かというと、じっと座って話を聞いていることが苦痛なあまり、熱出して倒れたくらいです。
 俺にリアルで会ったことがある方はご存知かもしれませんが、俺はものすごく落ち着きがないです。なんかの病気かと思うくらいにいつもそわそわしてるし、なにより姿勢その他がおそろしくだらしないです。これは精神的に不安定とかそういうのと無関係で、たとえものすごくだらだらとテレビを見ているときでも、やはり雑誌を空中に放り上げてキャッチしたり、テレビのリモコンを無意味に回していたり、とにかくじっとしているということができないのです。長時間じっとしていると、そのうち奇声を上げて、傘で鉄の柵とかをかんかんかんかんとか鳴らしながら爆走することになります。34歳ですが、本当にやります。こうしたことが、人間としての俺の「ものすごく奇妙な人」というイメージの形成にかなり深甚な影響を及ぼしていることは重々承知なのですが、やめられません。多くの人は、俺と一緒に歩くのをいやがります。まっすぐ歩けないし。
 そういう人が一日10時間近く、ぎっしりと座学です。ありえないと思います。


 あとは、そうだなあ。
 古くからの友人と完全に関係が途絶してしまったわけですが、これについてはしょうがないのかなあと思うようになりました。
 彼は生きることを義務であると把握しているようでした。こと「生きる」というようなことに対して考え始めると、どうしても両義性のようなものが出てきてしまうんですけど、ある側面では確かに俺もそう思います。生まれていてしまった以上、人と不可避的に関わるしかない。その人が生きることを抛棄してしまえば、その周囲にいる人たちになんらかの迷惑がかかります。まあ、寿命とか事故とかそういうのはしょうがないんです。いいったって悪いったって、その人のせいじゃないんだし、周囲の人たちも納得するしかないわけで。でも自ら抛棄することは、周辺の人たちそのものを否定することにもつながりますんで、よろしくない。
 そういうのとは別に、彼が考えていたのは、たぶん、生きることが義務である以上、その生を支えるためにすることもまた義務なのだということです。もし自分の生を「なにかを為すため」に使用するのであれば、その生はなにかの目的に奉仕するための道具であり、道具である以上、合理的に使う必要は生じるのだとは思います。しかし彼は、おそらく生きるということは生命を維持することだと思っていた。だから、生命を維持するためには仕事をする必要があり、仕事というのは、稼いだ金にふさわしい利益を職場に提供することだと考えていた。
 仕事は自分の意志とは切り離され、単なる義務と化す。
 であるのなら、彼に仕事を与えるのは経営者たる俺の仕事である。彼は与えられた任務をこなす。
 ここで問題になるのは、彼が与えられた任務に満足していられるほど無能ではなかったということです。そして俺もまたその能力に敬意を表して、こちらからの強制の仕事だけを与えるのは失礼に当たると考えた。
 ところが、彼の側からしてみれば仕事は義務なわけで、自分から「こういう仕事をやりたい」というのは、いってみれば不遜に当たる行為だったのだと思われる。
 俺にしてみれば、彼ほど能力のある人間がやりたい仕事がないという事態は考えられない。事実、彼にはやりたい仕事があったはずですが、ただ彼の側からそれを言い出すことは(彼にとっては)許されていないことだったのです。
 彼の側からの自発的な意志がない以上、俺はさまざまな重要な局面において彼に仕事を、少なくとも今後の店の運営方針に関わる決定を任せようとしました。しかしそれは彼の目には責任逃れに映ったようです。
 また俺はよく「仕事だりー」とか「やりたくねー」などの発言をするのですが、これも彼の目には責任逃れにしか見えなかったようです。
 俺は責任ということに対してわりとシンプルに考えています。雇われ店長ならば、経営者が要求した利益を上げることが責任でしょう。大筋では経営者の定めた方針に従いながら、必要であればその方針を覆しながら(でも経営者に許可を取ることが前提)、利益を上げる。
 自分がオーナーならば、究極的には責任は「雇った人間に対してある程度の収入を保証すること」が責任となります。そのために店を潰してはいけないわけですけど。
 いずれにせよ、その責任を果たせるのならば、なにをやってもかまわないのです。もちろん、その責任を果たすために付随的に数多くの責任、義務が発生することは言うまでもないですが。社会的に公正であること。従業員が働きやすい環境を作ること。企業として経理的に健全であり続けることなど。挙げていけばキリがありません。
 俺にとって「やりたくねー」とバイトの前で悪態ついたところで、それが店の志気や売上を損なうことにはまったくつながりません。なぜなら、それが許されるだけのキャラクターを俺は形成してきた自信があるから。そして「やりたくないことがあるにも関わらず、やらなければならない」ことを同時にバイトに教えなければならないことを知っているから。
 一般的には建前上「やりたくねー」は経営者の言うセリフではないでしょう。けれど俺はそうした発言を封殺されているような抑圧的状況はより働く人間のやる気を低下させると考えています。与えられた義務を遂行し責任感を持っていれば、可能な限り人間は自由であったほうがいいんです。自由であることは喜びで、そうした喜びの気配は、やはりほかの人に喜びを伝えるわけです。
 責任を押しつけることすら、俺にとっては責任逃れにはなりえない。自発的な意志がなく、にも関わらず能力が高いのであれば、仕事押しつけるしかない。能力というのは発揮されない状況では必ず不満を覚えるものだから。いずれにせよ押しつけた責任を彼が遂行できないことによって生じる不利益があったとして、それは利益の減少というかたちで俺が責任被るしかない性質のものです。

 彼は義務で動いており、俺は義務が嫌いです。
 義務は強制であり、俺は強制されることがなにより嫌いだからです。だから仕事において、自分のやりたいことと義務とが重なる比率がもっとも高いだろうと思われる仕事を選択しました。
 それすらもおそらく彼にとっては責任逃れになるのです。
 彼の義務の背後には本人の「意志」がありません。意志、あるいはやりたいことと言い換えてもいいでしょうが、そこに当人の欲望が反映している以上は、それは「自分勝手」ということになります。自分勝手な人間を信用できるか、という人格否定にまでつながっていきます。自分勝手な人間は義務を果たさない。よって「やりたくないことはやらないだろう」それゆえに「やるべきことをやらないのは責任逃れだ」ということになる。

 いいとか悪いとかの問題ではなく、おそらくこれこそは根源的な考えかたの違いというやつなんでしょう。彼の義務が「為すべきこと」と結びついたとき、それは最大限の力を発揮するのかもしれませんし。

 いろいろ自分のなかで葛藤はありました。なにより俺はプライドがめちゃくちゃに高いので、自負している部分を根拠もなく否定されることに対して激怒するわけですし。
 ただ、このような図式で納得できたときに、ある意味で自分のなかでの葛藤は解消されました。構造的に彼は俺に関するあらゆることを認められないということがわかったからです。合理化と言われりゃそれまでですが、ガチで話してもだいたいそんな結論になるんだと思います。

 そんで今回の失敗から学んだこと。
 彼が俺が「責任逃れをしている」と考えたいちばんの理由は、もちろん考えかたの問題もそうですが、事実として俺が「やりたくねー」と悪態をついても、それでも店は健康に回るという現場を見ていなかったことです。俺の言葉を信じるだけの根拠が足りなかったことです。
 相手が俺を信じていないのに、俺は彼を信じました。これが俺の最大の失策です。要するに度量が足りなかったのです。
 結論。人の上に立つのならば、人を信用してはいけない。相手が自分に対して全幅の信頼を持ったのを確信するまで、信用してはいけない。

 俺は非常に夜郎自大という言葉どおりの人なのですが、やりたい放題夜郎自大でいるために現実的に欠けてる要件があるのであれば、それを得るべく最大限の努力をすることを厭いません。やりたい放題であることを邪魔されたくなければ、やるべきことは、邪魔する人間を実力で圧倒することだけです。蹴倒すか、理解させるか、あるいは自分の信奉者にさせるか。
 俺は、ただ俺がありたい状態であるためだけに、力の信奉者になるでしょう。そして力というものが、俺にとって単なる手段であることを絶対に忘れません。てゆうかそれ忘れたら終わりだし。
 ちなみにやりたい放題というのは、まゆみさんと毎日遊んで暮らすことです。てきとーに旅行してドクロちゃんとか読んでカレーライス食べることです。
 だからある意味俺は。ドクロちゃん読むために現実と戦い、最強の負けない人間を目指しているともいえます。
 そして最初から人間として根底から負けているともいえます。

 てゆうかだ。
 彼が言うとおりなわけで。
 「人間そんなに変わるもんじゃねえよ」
 まったくです。ただ、その方法が激変することはありうる。ただそれだけのことですね。



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